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April 18, 2006

ラストデイズ/LAST DAYS

lastdays03.jpg
本日ワタクシ、「餅くん、なりきってる、なりきってる!なりきってるわよーっ」を、鑑賞してまいりました。

正直、ワタクシ、カート・コバーンさんとは、深くお付き合いの経験ナス。
カートさんが在籍していた、ニルヴァーナの、実際の活動期間の、90年代初頭の、彼(カート・コバーンさん)と、アタシ(ワタクシ)の関係を、判りやすく説明させていただくと、

“彼がライブで盛り上がるライブハウスの横の、カラオケボックスで、アタシは、明菜ちゃん熱唱。”

“彼のバンドが世間に飛び出して、チケット即完売状態のライブが、会場全体で、熱狂してる、大きなスタジアムの前の道を、アタシは、夜中に地球岬目指してドライブ中。”

てな感じ。(もちろん、どちらもフィクション)
一部、地元民しかわからない表現・・・っていうか、全然判りやすくもなんとも無いけど。

ちなみに、カートさん、未年生まれ。
同じ時代を生きていたはず・・・なんだけど。

とにかく、ワタクシ、餅・ピットくんが、カート・コバーンさんになりきっているであろう事はわかっても、実際に似ているのかどうかは、判断できず。

そのせいかどうかは分からないけど、途中から、どうも、餅ピットくんの動きとかそういうのが、そうしようとして動いているように見えてしまって、仕方が無かったよ。

こういう風に動くと、そういう風に見えるだろう”とか、
こんな風に動くと、こんな風に見えるかな”っていう意識が、ヒシヒシと伝わって来ちゃってね。

それが、あの、映画の雰囲気の中で、どうも馴染まなくて。

どっちかっつったら、出ずっぱりだった、餅ピットくんよりも、あの、(別荘?)の方が、存在感デカかったよ。
あのの持つ雰囲気が、なんだか圧倒的で、ひょっとして、監督さんは、この家が撮りたかったんじゃないだろうか?とか思ったり。
いや、そんなことはないんだろうけど。

「エレファント」でも、「ジェリー」でも感じた、その極端な言葉の少なさと、極端な風景描写の多さ、そして、極端に少ない説明的要素は、同じで、映画に入り込むまでの一寸した、落ち着かない気持ちから、ラスト、何かを、むぎゅ~っともぎ取られるような気持ちになるのも、同じ。

ヘタすると、『苦悩する主人公Blakeを、理解する人間は、誰も居ない・・・』みたいな、そんな、何かしらテーマ的なモノを求めたくなる雰囲気はあるけど、やっぱ、そんな事はどうでもいいかな。

結局また、前述2作同様、この言葉少なく、流れる空気とは逆に、実は乱暴なザワザワ感に、酔いしれて、気持ちよくさせてもらいました。
なんだろう、この気持ちよさの種類って・・・

ところで、残念ながら、テーシャッツは、Lサイズのみでした。
無念。
作るか。
勝手に。



劇中、餅・ピットくんが、一曲だけ、熱唱する曲があるんだけど、それ、どうなん?
オヒサルサイトでも、ぎゃお~んって、流れてるんだけど、どうなん?

あと、劇中、唯一のカラミシーンが、男子×男子(一人は、ルーカス・ハース!!)って、どうなん?
その、なんていうか、物凄く自然な感じに、ちょっと、グっときちゃったんだけど、それ、どうなん??

そして、おうちを訪ねてくるモルモンの宣教師が、可愛い双子って、どうなん??
宣教師1・“僕は、エルダー・フライバーグです。” 
宣教師2・“僕も、エルダー・フライバーグです。”って、どうなん??
(←クリックデカ。双子画像。劇中では、例の服装に、クルーカットだった。)

ねぇ、どうなん!?

投稿者 kove : April 18, 2006 01:20 PM| コメ (0) | d・映画メモ部まであと一歩

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